店長ぼんやり日記

渋沢栄一に学ぶ「自ら人生を切り開く」ために大切なこと3選

吉沢亮さんが主人公を務める大河ドラマ「青天を衝け」が今週末、最終回を迎えます。

その主人公は2024年から新1万円札の顔になることでも注目される渋沢栄一です。

豪華キャストも注目を集めていました。

王子製紙、日本郵船、帝国ホテル、札幌ビール、東京ガス、東京電力……など

約500ともいわれる「株式会社」の設立に携わった、渋沢栄一とは改めて、どんな人物だったのでしょうか。

この記事では華やかな功績のある渋沢の生き方に迫ります。

渋沢栄一とは

「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢は、幕末の1840年、武蔵国血洗島(埼玉県深谷市)の農家の家に生まれました。

簡単な歴史的経歴は以下のようになります。

  • 最後の将軍である徳川慶喜に仕える。
  • 慶喜の弟・昭武に従ってパリ万博使節団として渡欧。
  • 倒幕後帰国し、慶喜の隠居に伴って静岡へ移る。
  • 静岡で興した株式会社が、大隈重信の目に留まり明治政府の官僚となる。
  • のち実業家に転身。

近代日本の経済の基礎をつくった人物といえます。

「時代の子」としての渋沢栄一

江戸末期から明治時代にかけて、日本は近代化をめざす激動の時代でした。

かの有名な吉田松陰や坂本龍馬、西郷隆盛といったすぐれた人物が、次々と悲運に流されていきます。

しかし、渋沢は「時代の子」としての強運を持っていました。

幕末・明治・大正・昭和と91歳まで生きた渋沢。

渋沢の人生にはいつくかの幸運があったように見えます。

しかし、その原点は偶然によるものというよりもむしろ、渋沢の努力の賜物であったといえそうです。

それは「自ら人生を切り開く」姿勢です。

自ら人生を切り開く姿勢が表れている渋沢の特徴を3つご紹介します

自分の活かし方を見極める

 

大蔵省の役人となった渋沢は、日本の近代化をめざして、財政、地方行政、殖産興業等を精力的に推し進めます。

しかし、障害が多い状況を冷静に見極め、計画を断念することになります。

これが功をなし、反逆者として処刑される危機を免れました。

「自分の生きる道は、ここではない」と悟る。

一見、諦めにも捉えられる選択ですが、自分をもっとも生かす道を、実業家と見極めた渋沢はお見事だったといえます。

そして、少年期に学んだ孔子の『論語』の精神を生かして、私利私欲ではなく、世のため人のために利益をもたらす実業家になろうと志を持っていました。

そんな強い志は見事に結果に繋がりました。

出会うべき人に出会う

第二の特徴は人に恵まれていたことでしょう。

危機を逃れたのち、一橋家の重臣、開国派で英明な平岡円四郎に出会い、「世界を知らずに、攘夷を論じている自分」を知らされ、彼は眼をひらかされます。

かつて敵視していた幕府側、一橋家の家臣となるという選択をします。

平岡との出会いを機に渋沢は自らの価値観や囚われを手放すことを決意したのです。

これまでの自分にこだわらない柔軟な姿勢をも持ち合わせていたことで、出会いを生かすことができたといえそうです。

環境を変える

第三の特徴は、知らない世界を知ろうとする姿勢でしょう。

幕府の最後の将軍、徳川慶喜の家臣となった渋沢は、お供としてパリ万国博覧会が開催されるフランスへ渡ります。

そこで、渋沢は西洋の文化と社会にじかに触れ、日本より遥かに進んだ技術に驚くことになります。特に渋沢の心を動かしたのが、銀行を中心とした経済構造であり、株式会社による近代の資本主義のありようでした。

日本の遅れを危惧した渋沢は日本に戻ってきたあと、株式会社をはじめます。

これがのちの「480社もの「株式会社」を立ち上げる」という華やかな功績のスタートとなりました。

違う文化を素直に受け入れる姿勢。

異国を旅するという環境を変える運に恵まれたことはもちろん、謙虚だからこそ実現できたことといえそうです。

さいごに

上記述べてきたように、渋沢が運に恵まれていたことは間違いありません。

しかし、運だけではなく、自ら切り開こうとする姿勢がかけ合わさったことで人生を好転させたことは間違いないでしょう。

渋沢は実業家としてだけでなく、人として素晴らしい人物であったことが考察されます。

我々もぜひ、この記事で挙げた3つを意識して自分の人生を切り開いていきたいものです。

皆さんを、そして自分たちを、応援!しています。